
「何を読んでいる」
背後から声をかけられて、女が振り向き様に答えた。
「遠い昔に読んだものよ。ある忍びの里の姫と、それに仕えた忍びの男の物語」
「なんとまあ、珍しいものを。誰も見向きもしていない物語じゃないか。それも最期は」
男は、その物語をよく知っていた。自分も遠い昔に読んでいたものを。
「そうね。私も、作者を恨むくらいの最期を読ませられて、失望したわ。でも好きなのよね」
女は静かに頷いた。
「君も物好きだな。そんな悲恋、私は二度と読みたくはない」
「それこそ悲しい話だわ。読まれなければ、この者たちは生き場を失ってしまう。物語の者たちを愛しているなら、愛しく読むのも悪くはない。それまでの過程を慈しみたいの」
「貴女の言うことももっとも。だが、どうせなら良い結末に変えてしまおう」
男が絵巻に手をかざそうとしたが、女が絵巻を自分の方に寄せ、その手を制した。
「それはだめよ。私はこのままが好きだから。彼や彼女の人生がそれぞれにこの物語によって輝いている」
女は続けて答えた。
「それにこの物語を読んで、幸せな物語を描きたいと思う者が現れるかもしれないじゃない?そうしてまた新たな物語が生まれていくのよ。それってとっても素敵なことだわ。私はそれを楽しみに待っている」
「貴女のいつか言っていた、懐かしい空白のことかな」
「そうよ。よく覚えていたのね」
「忘れるはずもない。懐かしい空白。私もその貴女の言葉を気に入っている」
それはきっと、いつか誰かに読まれたかもしれない物語。
絵巻を開けばいつでも、その懐かしさに触れて、
その空白に触れることができる。
彼女はそれを懐かしい空白と呼んでいる。
女の求める描き手が現れるのは、その空白が
時が満ちて、埋まっていく満月のように。
月がまんまるだと誰かが呟いた頃であろうと、男は予感していた。
