
「知ってるかい、あの若様のこと」
「ああ、そうさなあ。夜な夜な一人で何かをぶつぶつ話してらっしゃるとか」
「とうとう物狂いなさったか、こわやこわや」
城内ではある噂が流れていた。
嫁を持たない一人の若君のはずが、
夜には笑い声と共に楽しげに過ごす様子を見聞きした者が、
あれは乱心したのだと。
「そんなことはいまさらだ。気にしないさ。元から変わり者だと思われていて然るべきだ。本望だね」
若君、もとい青年は、なんてことはないとどこ吹く風だ。
それを見て、龍の少女は
「あなたが困らないならいいけど、」
「私にとっては君がいなくなる方が困る」
青年は筆を走らせていた。
少女はそれを興味深く覗き込む。
「何を書いてるの?」
「私も、物語を書いてみようと思って」
「まあ。どんなお話し?」
「聞きたいか?」
「ええ、もちろん」
「ふふ。少し恥ずかしいけど……ある城主に仕える軍師と、その城主の嫁に仕える侍女の物語さ」
「恋物語ね。とっても面白そう」
「ああ、でも、これがなかなか素直になれない二人なんだ」
「でも、どうして軍師なの?」
「そうだなあ、……まあ、こういう軍師がいたら、と私の願いも込めてさ」
彼は少し寂しげに微笑む。
少女はその様子をじっと見つめた
「聞かせて、あなたの物語」
「え、今かい? まだ途中なんだけど」
「それでも。話してるうちに続きが思い浮かぶわよ。きっと」
「そうかな、私は君のようになんでも書けるわけじゃ……」
「だって、あなたの軍師だもの、きっとあなたのために現れてくれる」
「……? まあ、いいけど、そんなに期待しないでくれよ」
青年は静かに、少女に語り始めた。
心踊るように待ち望んでいたのは、語られる軍師と侍女であることを、彼はまだ知らない。
青年がその者たちを呼び寄せたようで、彼が呼ばれている。
少女は、その者たちの心がよく分かっていた。
だからこそ、語らせる。
新たな夜の一頁の幕開けを望んでいる者たちのため。
そして、彼のために。
「その男は孤独なんだ。どこまでも。でも、ある時、城主に望まれて軍師になり……そこで一人の女性に出逢う。男がずっと待ち望んできた、たった一人の相手だ」
「運命のひとね」
「うん。でも、好き同士でも、最初はうまくいかない。ぶつかりながら、ちょうどいい距離を見つけていく。そうして結ばれていくんだ」
「とっても素敵ね。あなたの物語」
少女は、文机に手を置いて嬉しそうにはにかんだ。
「君が夜な夜なたくさん聞かせてくれるから、君の影響さ。これができたのは君のおかげ」
「いいえ、あなたよ。あなたの今まで生きてきた時が、それを呼び寄せた。そしてあなたが呼ばれた。あなたの輝きだわ」
「私の……輝き?」
「ええ。あら、そう思ったら、私も俄然創作意欲が湧いてきたわ」
少女は小さな手でいっぱいに絵巻物を広げて
描き始めた。
「君は描くのも、思い浮かぶのも早すぎて、私には追い付けそうもない」
「人にも龍にもそれぞれのペースがあるのよ、あなたに合ったペースが一番」
「ふふ、そうか」
お互いがそれぞれの物語に向き合う夜は長く、静かにそして穏やかに流れていく。
風が強く吹き……流れ行く雲のように。
