あなたを救えなかった。
本当は愛していた。でも永遠と続く、まだ足りない、まだ足りない、そうしているうちに。
私の心が枯渇していく。
どうしたらいいの。
静かにそう呟いた。もはや彼にも届かない言葉を胸のうちに秘めて―――
「千珠」
ゆらゆらとゆらめく、紺色の鱗が浮かび上がる。
まさしく龍神の姿で、瞳の色は藍色、まつ毛は長く、少し大人びた雰囲気である。
「お呼びかしら。何か物語のお手伝いでも?」
「ええ。思ったけど、あなたたちってその……こういったらなんだけど、すごく便利よね。千雪としても出てきてくれるし、あなたとしても」
「それは、千歳、あなたがきちんと自分と誠実に向き合ってきたからよ。だから私たちを呼び出せる。一辺には難しいけれど……」
「惜しいわ。千雪とあなたって姉妹みたいで、同時に出たらいいものが描けそうなのに」
千歳は筆を持ち、片目をつぶって彼女を眺めた。
「ふふ、それで?何を描くの?」
「あなたの昔の話を聞かせてくれないかしら」
「昔……」
さっと彼女の顔が少し曇る。
千歳はそれを瞬時に察した。
「ごめんなさい。言いたくないなら無理にとは……」
「いいえ。あなたの頼みですもの……でも、私の話は苦い経験よ。何も残らない。残らなかった。過去の遺物」
千珠は伏し目がちに答える。
「私の捧げたものは、相手に響くことはなかったの。永遠に。本当は救ってあげたかった。愛を教えてあげたかった。愛していたから」
千歳は黙って静かに彼女の言葉を深く受け止めたいと、真摯に向き合う姿勢である。
「でも。彼は私を裏切った。その牙で噛みつくように。跡が残ってしまって、私たちの関係はもう戻ることはなかった」
千珠の心は、怒りでも悲しみでもなく、それを通り越して、無心にただ、強く語る。
「ただ、寂しいものだけが残ってしまって交わらない。……こんな話、何の役に立たないわ。何も残っていないんだもの」
千珠は項垂れた。
千歳はそっとその頬に触れる。
「話してくれてありがとう。でもね。何も残らないわけないわ。だって、あなたは今ここにいる。それだけで私の力になってくれてる」
千珠の瞳が一筋の光をもって彼女を見上げる。
「本当に?私、ここにいていいの?何もないのに」
「何もないわけない。あなたには大事なものが、いっぱいつまってる。その者を心から愛したあなたは強くて優しく尊い。そんなあなたを、あなた自身が抱きしめてあげてほしい」
彼女たちの瞳が、柔らかな光とともに交差して、深く繋がりあう。
「ありがとう。千歳」
すり寄る彼女の毛並みを撫でて、千歳は微笑む。
「千歳。聞きたいことがあるんだ。ちょっといいかな……って。君にもかい?」
千迅が顔を出して驚いた様子で、千歳と千珠を見た。
「君にもってことはあなたも?その隣の……」
「ああ。今朝急に出てきたんだ。ただ、ちょっと物静かなやつでさ。千冬と違って、あんまり喋らない」
千迅のすぐ傍らに、そっぽを向いて漂う、一匹の龍。
身体は黒に近い紺色で、瞳は緋色、ゆらりとこちらを向く。
「千吏といいます。以後お見知りおきを」
じっと見つめる瞳の先に、千歳、そして隣の千珠へと。
千珠は、さっと千歳の傍らに寄り、千歳はそれを感じながら答えた。
「ええ。よろしくね。こちらは千珠」
「へえ、千珠か……とても美しい瞳をしているね。私は千迅だ。よろしく」
千迅が気さくに話しかけると、千珠は少し警戒を解いた様子で笑みを浮かべた。
「ええ。よろしく……」
千吏と千珠は、言葉を交わすでもなく、ただじっと静かな雰囲気を纏っていた。
「千歳、また新しい物語を描いているの?」
「ええ、そうよ。それを千珠に相談していたところなの」
「え、私には相談しないのか」
「絵巻のことなら何か描けそうだから大丈夫よ」
「なんか最近私に冷たいよなあ……君との距離を感じるよ。もっと頼ってくれてもいいのに」
「いやー……まあ、そうね。近いうちに」
彼女の曖昧な返答に、千迅は不満そうだ。
「主の非礼をお許しください。何も全て打ち明けることもない。皆それぞれ抱えるものがあります」
千吏が頭を下げると、千歳は慌てて手を振った。
「違うのよ、そんな大袈裟なことではなくて……千迅に言うと、何だか距離が近いというか」
「距離を感じるから近づきたくなるんだよ。君は照れ屋だから」
「私はそんなんじゃないわ。もう」
困ったような笑みを浮かべ、千歳が千珠を見た。
「千珠、もう袖に入っても大丈夫よ」
「いいえ、少し……話をしてみるわ」
千珠は頭を振って答えた。その瞳をじっと見つめた千歳が小さく頷き返す。
「じゃ、距離を私から近づけようかしら」
「お、今日は積極的だね」
千迅の袖を引っ張り、その場を後にする千歳。
そこに残されたのは、二匹の龍である。
「お久しぶりね」
「ええ。本当に」
再びの沈黙に、千珠は瞳をどこに落ち着けたものか惑う。
「私は……あなたの真意が知りたかったの」
その言葉に、千吏は目を見開いた。
「私は……何と言ったものか。本当に……あなたには、どうお詫びしたら良いのか、すみません。謝っても取り返しのつかないことを」
千珠は黙ったまま、ただじっと千吏の言葉に耳を傾けた。
「以前の私は、もう、救いようもない……あなたの心を傷つけた。蔑ろにした。前の世のことだと割り切れるものではない。あなたにどういう姿勢で接したらいいのか」
前世の深い縁、そうして廻り、いまここに。
千珠は深く静かに頷き返す。
「あなたの気持ち、受け取ったわ。すごく、辛かった、けど。あなたも、過酷な運命を背負いながら、あの時大きく深い経験をして、今はこうして顔を合わせてる。そして心からのあなたの言葉を聞けた。それだけで、私は」
ただ何もなく傷つけることもない、環境、流れ、何らかの理由により、愛は得難いものだと思い込んでしまう。
それを、千吏は遠い過去の自分を思い返しながら静かに口を開く。
「私に何かできることはありますか」
千珠はその美しい瞳が煌めき、潤う。
「ただ、傍にいて」
心がほぐれていく、二匹の、二人の中で。
遠い、過去までも癒されていく。
「私の主の手助けをしてほしいの」
彼女はさっぱりと笑って言った。
「そ、……そうですね、成る程」
彼は、何だか肩透かしを食らった様で、今度の彼女は前と一味も二味も違う。
それもまた味わい深くてよいと、これからを静かに楽しみにするのであった。