
「若君、お迎えにあがりました」
透明な鱗が浮かび上がり、ふと気づくと、一人の男が控えていた。
「なんだ、お前は。私は知らんぞ。お前のような者は」
青年はじっと目の前の男を見据えた。
品定めをするように、その存在から視線を外さない。
「この世の者ではありません。若君が知らぬも当然のこと。だからこそ知っていただきたいのです」
それまでそよ風すらなかったその場に、静かな風が吹き、男は顔をあげた。
「名も名乗らない者を知れと?」
「名などありません。若君につけてもらうために、名無しの龍として、ここに」
「名もない龍神……」
青年は、ふと息をついて、呟いた。
「それで、お前は私をどうするつもりだ。神隠しでもするつもりか?」
「それをお望みですか?」
「まあ、それも悪くない。……ここにいては息がつまる。風が吹きすさぶ草原に身を投げだして、のんびり過ごしたいものだ。……ひとりで」
青年は顔色ひとつ変えずに答えた。龍の男は少し困ったような表情をして、
「おひとりですか。それはお寂しいことをおっしゃる。この世は何事も叶えられる世界だというのに、あなたは先に諦めておいでだ」
「そんな夢物語なら、聞かない方がいい」
青年の瞳は落胆に染まっている。
「そうでしょうか。考えてもみてください。もし、心から愛する者がいつでもどこでも傍らにいて、あなたを愛し、あなたも愛する。そのような愛し愛される関係を構築できるとしたら?」
男が涼しい顔で続けた。
「頭に思い描けることは夢物語ではありません。私は嘘をつきません。その証拠に」
青年の胸元が途端に暖かくなり、寒空に羽織をかけたような包まれるような暖かさを感じた。
思わず驚いた青年は、それまで微動だにせずにいたのに、身じろぎして彼を見た。
「あなたが少しでも信じようとしてくださるなら、どうか名をつけてください。契約してください。この私めと」
「……」
青年は少し黙ったまま男を見下ろしていたがやがて、
「暇つぶしくらいにはなるか」
「ええ、それはもう。楽しい日々となりましょう」
「ならば名付けよう」
再び沈黙ののち、青年は口を開いた。
「お前の名は、千風」
自身の名から一文字とった、その名を静かに龍に与えた。
