夢中になれること

「最近なんだか忙しそうだね」

千歳ははっとして彼を見た。

「忙しい……そうかしら。わたし、忙しいって、そんな風に見える?」

「自分じゃそう感じない?だったら、夢中になってるってことだね」

彼女は、時々、自分の感覚に自信が持てない時がある。

そんな時は、こうして、千迅に言われて初めてそうなのだと気付く。

「そう……そうね。私、夢中になってるかも」

千歳は、手元の巻物に目を落とした。

愛しげに見つめたそれは、これからどんな絵を、物語を紡いでいくのだろう。

それを彼自身も期待しながら、一方で、心のどこかで寂しさを感じていた。

「羨ましいな」

「千迅にだって夢中になれることあると思うわ」

「それってどんなことだと思う?」

千迅は、じっと彼女を見た。彼の瞳は、羨望という眼差しではない。

「そうね……どうかしら。あなたはいつも風みたいに自由で、ふわふわしてるというか……時にはとても激しく吹く風のように大胆というか。掴みどころがなくて、あなたが夢中になれることって考えたら難しいわね」

「くく。ふわふわしてる、ね。……私はそんなに不思議な男かい?」

「不思議とも言えるし、不可解……神秘、謎に包まれてる、ような」

この時が、千迅にとっては、一番好きなひとときであった。

彼女が自分のことに思いを巡らし話してくれる。そんな時が。

「あなたのこと考えていたら日が暮れちゃいそう」

「それでもいいんじゃない?」

千迅は彼女に誘いの瞳で、再びくく、と笑みをこぼした。

「まあ!だめよ。せっかく今良い感じなのに、お話しして一日を終えるなんてもったいないわ」

「そういう時間もいいと思うけどね。君が今ノリに乗っているなら仕方ない。身を引くよ」

彼はそう言いながら、絵巻にちらと視線をやった。

今回は譲ってやると言わんばかりに、それを眺めて。


「でも。あんまりほっとかれると、ちょっと寂しい。君を見てて退屈はしないけどね」

彼の中には、彼女の邪魔をしたくない。が、自分を忘れてほしくない。

そういう気持ちの葛藤があって、時々、彼女が他事(彼にとっては)に目を向けていると、

彼女に能力を発揮して満たされてほしい、輝いていてほしいと思う反面。

自分のことでも頭をいっぱいにしてほしい、という気持ちがあった。彼としてはそれを

身勝手なことだと、感じながら、それを望んでしまう。

「あなたのことはいつも見てるわ。ほら、だからこうして新しい絵が描けるの」

「見てるつもり、になってない?」

すっと彼女の筆を持つ手に手を重ねた。

やっぱり今日は譲れそうにない。彼は心の奥でそう感じながら……引き留める自分とこのまま進んでしまいたい。

そんな相反する気持ちを抱えたまま、彼女の瞳を探っている。

「……そんなこと。ちゃんと見てるわ。今だって」

千歳は少し戸惑っている。

それを、千迅は一時も目を離すことはなかったが、やがて視線を外して答える。


「うん。……そうだね。ごめん。」

この言葉は、彼女を困らせたことに対するものでもあり、

自分の我儘で中断させてしまったことに対するものでもあった。

彼女を夢中にさせてしまう何もかもに嫉妬を覚えてしまうのは

もはやこれは病気だと、彼の中で自覚はある。

それを抑える自制心がいつまでもつのか、それは千迅自身にはまだ分からない。