ある朔日のこと

ある朔日のこと


黒龍は争いの象徴だと。

大昔に聞いた、今はなき師に思いを馳せて……


それでも彼女は頭をふる。


黒龍は悪くない。


そう一生懸命に語る彼女の瞳を、俺は一生忘れない。


忘れることなどできずに





「なかなか見所がある」

黒い衣が、ふわりと風にのり、男の手元の絵巻の先までもふわふわと宙に浮いている。


「あの時と何ら変わらない、な」


長い黒髪がさらさらと流れて、その空間は涼やかにキーンと風鈴の音が響くだけ。

男は黒衣を翻し、立ち上がる。


「さて。そろそろ頃合いか」


黒雲にのり、その姿は白雲にも紛れて消えていく。



とある屋敷。

夜、、静かな空気の中で、女がひとり、仄かな灯りを頼りに、書き綴る。

一通り書き終えたのか、ふうと息をつく。


その心は静かに満たされて、ああ、私が求めていたものはこれだ、と。

本当に求めているものはいつだってここに。心休まる気持ちである。



「美しい」


彼女以外誰もいないはずのその場に、その姿が浮かび上がる。

彼女は物怖じせず、その姿をじっと見据えた。


いつも傍らにいる彼は、今晩は龍神界の集いに出掛けていて留守である。そんな中訪ねてくる者は限られていた。

龍神界に顔を出すことも禁じられ、忌み嫌われている存在。


「あなた、黒龍よね」


「喜ばしい限りだ。君は俺を覚えていてくれたのだな」


「このような夜更けにどうして?」


「俺は美しいものが好きだ。それにずっと忘れられない少女に会いたくなったのさ」



遠い昔、昔の話だ。


「君は、俺を嫌わないでいてくれた。今もそうかな」


「嫌いじゃないわ。でも、こんな夜中に訪ねて来られても戸惑うわよ」


「それは悪いことをした。君の機嫌を損ねたくはない」


男は、すすすと身を引いて廊下に出た。

彼女はふとため息をはいて控えめながら笑みを浮かべる。


「少しくらいならいいわ」


男は、パッと顔を綻ばせた。



月も出ない闇夜に、二人は語り合う。


「あなたといるとなんだか昔を思い出すわ」

「奇遇だね。俺も」


昔、昔から、黒龍の一族は争いの時に現れると言われてきた。

幼い頃から、気味悪がられては遠ざけられ、俺たちはひっそりと暮らしてきたのだ。

そう、紺色の君とは違う、真っ黒な俺だから。


「黒龍といえば……人間のお姫さまと恋に落ちたりとかは」

「ないね」

「そう……残念。私、あの物語が好きだから黒龍のこと、悪くないって思ってたの」

「嬉しいな。そう思ってくれていたのは。君の物語も読んでいるよ。とても面白い」


「まあ。ありがとう。なんだか照れるわ」


ふふと笑う彼女に、男はそれをじっと眺めた。


「そして美しい」

「線が綺麗?それとも色遣いかしら」


「全部」


彼の瞳は涼やかだ。どこまでも。



「……さて。そろそろお暇しよう。君の相棒が帰ってくる前に」


男はすっと立ち上がり、晴れやかに笑った。



「今度は彼がいる時に来て。彼も黒龍のことは好ましく思っているから……」


「それはどうかな」


黒龍はふわと黒雲に飛び乗り、彼女を振り返る。



「それじゃあ。良い朔日を」


俺の居場所は、ほんのすこし。


君のどこかにあればそれでいい。