
ある池のほとりに美しい女が一人、立っていた。
その女は白い肌に紫がかった黒髪が映えて水面にくっきりとその面影が浮かんでいた。
「水鏡よ。今一度彼の人のお姿を見せよ」
ふと波紋が広がり、ぼんやりとこれまた見目麗しい若者の姿が浮かび上がった。
「ああ、とても美しい。私、この方のためならどんなことでも厭いませぬ」
「まことそうお思いか?」
「ぎゃっ」
急に水面からその若者が現れ、女は驚く。
「これはこれは。たいそう姫らしからぬ声をあげなさる。面白いな」
女はハッとして口元を隠した。
そして恥じらいをもって男を見る。
「いきなりあなたが現れるんですもの……」
「いきなり姫がこちらの様子を知ろうとなさったのでつい」
姫はムッとして若者から顔を背けた。
「覗きをしていたわけではありませぬ。そんなはしたないこと。少し、ほんの少しご様子を見ていただけにございます」
「それが覗きというもの。まあ、人の世では、垣間見などと言って覗きを正当化しようとする輩もいるようだが。それを姫がするのだから面白い」
若者は面白がり、姫は心外だとでも言いたげに口元をきっと結ぶ。
「あなたがそんなに意地の悪い方だとは思いもしませんでしたわ。もうお戻りになって」
拗ねた姫に若者が唐突に彼女の袖口を掴む。
「おっと、逃がしませんよ。こちらを覗き見したなら相応の振舞いをしていただかなくては」
突然のことに、姫はひどく動揺した。
「覗き、垣間見、私たちはどちらに入るんだろうね」
「男女の出逢いが垣間見から始まるなら、これはやっぱり覗きかしら」
「でもそれなら、ほら、男女の出逢う場面を見てるわけだから、これも垣間見だよ」
「もうどっちでも同じよ」
女が小さく笑いながら隣の男を見た。
姫と若者の出逢いを偶然にも、(あくまでも偶然であることを念押ししておきたい)、目撃してしまった千歳と千迅は、その様子を静かに見守っていた。
「お姫さま、だいぶ驚いているようね。無理強いはよくないけれど……」
「行ってこようか」
千迅がすっと立ち上がる。
「いいえ、もう少し様子を見ましょう。あの若者を嫌がっているようには見えないわ」
「でも無理強いはよくないんだろ?」
「殿方は少しくらい強引な方がいいのよ。姫が好意を持っているなら尚更」
「女心は難しいね」
「男心より単純明快だと思うけど」
無言で、顔を見合わせる二人である。
「きゃっ何をなさるの」
「あなたの嫌がることは致しませんが、どうにも見つめられているだけというのも、焦れったく」
若者は姫を抱き留め、笑みを浮かべている。
それに対し姫は真っ赤になりながら、されるがままであっても口は達者に、
「見つめていたわけではありませぬ、思い違いはおやめになって!」
「ふむ、ではまったくの勘違いだと?それならなぜ」
「それは……ただ、眺めていただけです」
「私を?」
「あなたは姿形が美しいので、ただ、見ていただけにございます」
姫の苦し紛れの言葉に、若者は再び笑い声を立てた。
「ならばもっと近くで眺めてみれば良い。ただし、二人きりでなければな」
若者は姫を抱きしめたまま、す、すと水面を歩き、そのまま向こう川へと吸い込まれてしまった。
「あら、見ているのがバレていたのかしら」
「そのようだね。分かっていて見せつけられてたんだ。少しもやっとする」
「そう?いいもの見せてもらったわ」
千歳はさっさと筆を走らせ始め、千迅は小さくため息をつく。
「君もあれくらい色めきたってもいいと思うんだけどな」
まあある意味色めきたってはいるか、と目を輝かせていた彼女を千迅は呆れながらも見守っていた。