翌朝。
千歳が目を覚ますと、千迅は既に布団をたたみ始めていた。
「あ、おはよう。千歳」
「おはよう……今日早いのね」
千歳が小さく欠伸をしながら起き上がる。
「こうなったら行動あるのみさ」
「何の話し?」
「だから、私の本当にやりたいこと。朝からきびきび動いてたら何か思い付くかもしれないだろ」
「うーん……そう?」
「そうだよ、ほら、千歳も早く起きて。じゃなきゃ君の布団をひっぺがして転がしちゃうぞ」
「まあ、ふふ。子供みたいなこと」
彼女は笑いながら起き上がり、自身の布団をたたむ。
朝の身支度を済ませたところで、突然、戸をたたく音と共に呼びかける声が聞こえた。
「ごめんくださいー」
「あ、はい!……そういえば昨日、朝早くにお客が来るって先生がおっしゃってたっけ」
千迅が戸を開けると、そこには彼と同じ背丈の青年がいた。
「おはようございます。私の師から千月殿に御文をお届けに参りました」
「それはどうも。さあお上がりください」
「いや、用は済んだので……返事なども不要とのことなので、私はこれで」
青年が後ろに下がろうとしたが、横目で千歳を一目見た瞬間、あ、と声をあげた。
「君、千歳さんだね。私の師が褒めていたよ。君の画のこと」
「え、本当?」
千歳は嬉しいそうに青年を見た。
「ああ、私も感銘を受けたよ。細部までこだわっていてたいへん良い。やはり女性だとこう、たおやかさがあふれでるものなのかとね」
「まあ……嬉しいわ。ありがとう」
彼女はにこにこと笑みを浮かべた。
青年は身を乗り出して千歳に訊ねた。
「どうしたら君のように描けるんだい?何か着眼点が違うのかな」
「私は……ただ思い付いて自分が好きなように描いてるだけよ。特に特別なことはなにも……」
「ああ、なんとなく分かるよ。その執着のなさがポイントなんだろうな」
「そうなのかしら」
二人の盛り上がりを他所に千迅は、手持ち無沙汰であった。
「私も君に倣って執着を捨ててみることにするよ、ありがとう。それじゃ」
青年が早々に帰ると、千迅が思わず息をついた。
「やたらとグイグイ聞いてきたね」
「それだけ向上心があるってことよ。良いことだわ」
「君、褒められたから彼を庇ってるのかな」
「庇うだなんてそんな……」
「すごく嬉しそうにしてたし」
「それは、自分の絵を褒められたら誰だって嬉しいわよ」
「ふーん……」
千迅の心は再びもやもやとした感情で渦巻いていく。
突然、千迅が筆を手に取り、ぐるぐると書き殴った。
「ちょっと、千迅何をしてるの」
「なんかムカムカするからこうダイレクトに表現してるんだ」
「ふふ。ダイレクトにね。まあー、紙がもったいない……あら」
ほぼ真っ黒に塗りつぶされた紙を見て、千歳がはたと気づく。
「千迅。塗りつぶす前に何か書いてあったみたいだけど……これ」
「一応書き損じの紙を使ってるさ。憂さ晴らし」
「書き損じた文書でもあったの?」
「いいや。私が絵の合間に書いてる文だよ。なんの変哲もない物語」
「物語?あなたが書いてるの?いつから」
千歳が瞳を輝かせて千迅を見た。
千迅は視線をそらして頬をかく。
「え、矢継ぎ早に聞くんだね。恥ずかしいから君には見せてなかったけど、けっこう前から……」
千歳がじっと千迅を見つめる。その瞳は一瞬たりとも逃さないといった空気だ。
「いや、見せるわけないだろ。恥ずかしい」
「私たちの仲よ。今さら恥ずかしいなんて言って誤魔化さないで」
「や、やめてくれよ。あっ!そんな手早く私の文箱を漁って……君、何をするんだ」
「うーん……あ!」
辺りをきょろきょろ見渡していたが、彼の風呂敷に目が止まる。
「ばっ……ちょっと待て、それは……なんでこーいう時だけ君は俊敏な動きをするんだ」
彼女の袖を捕まえようとしたが無駄であった。
「ふふふ。見つけたわ。これね、あなたの力作」
「力作てなもんじゃないよ。ただちょっと空き時間にいろいろ適当に書いてただけさ」
「ふーん」
「あ、君のふーんは最大限聞き流してる時のふーんだな、それは」
千迅の手書きの書をじっくり眺める千歳。
千迅は気が気でなく、手が震えてきそうな勢いである。
もうここまできたら、という思いで、千歳が読み終わるのを待つ彼であった。
ーーー
「どう?特になにもなかっただろ」
千迅が苦笑いしつつ千歳を見ると、
彼女はパタンと書を閉じて顔をあげた。
「千迅、これ……」
彼は思わずキュッと目を閉じた。
「とってもいいわ!すごくいい!私の語彙力がなくなるくらい」
「え……そ、そうかな?いや、お世辞はいいさ。千歳はなんでもいいって言うし」
「だったら千月先生に見てもらいましょ」
「それだけは……!堪忍してくれお代官さま」
千迅の冗談に、千歳が微笑む。
「ふふ。でも、千迅、ほんとよ。すごくいいと思う。あなたのやりたいことってこれなんじゃない?」
その一言に、彼は瞳を大きく開いた。
「私のやりたいこと、これが?」
「ええ。きっとそうよ。書いてて苦にならない、文章がどんどんわいてくるんでしょ。それってあなたの才能だわ」
彼女の笑顔を見て、すぐさま千迅の胸の奥で暖かいものが広がっていく。
それこそ今すぐ、何か書きたくなるような、そんな衝動を抱えて。
気づけば、先ほどのもやもやなどどこえやら消え去り。
彼と彼女にとっての新しい一頁が開かれようとしていた。
