
「あの男を消して欲しいのかい?」
ある夜のことだ。三日月が瞬きから薄雲に隠れ、雷鳴が轟く頃。
男が穏やかだが鋭利に呟く。
「……分からないわ」
女の方は、惑う瞳を見せた。
「珍しいね。君が迷うなんて」
「私でも迷うことはあるわよ。ただ、心がざわつくの。あれの横顔を見ていると」
「忘れられないの?」
男の瞳は鋭く月の光のように。
「……既に消したの。それまでを全て。だけど、まだ完全じゃない」
「君は真面目だな」
くく、と笑う男に女が肩をすくめた。
「あなたは気楽よね。ゆらゆら生きてるだけでいいもの」
「そんなことないさ。私も、そうだな……君を羨ましく思う時もある」
「本当かしら」
「本当さ。魂を燃やして生きてるだろ。ずっとまっしぐらに。それがなんというか、君のしっとりとしたイメージをぶち壊してくれる」
「なによ、それ」
彼女は困惑した笑みを浮かべた。
「ふふ、それで?消してみて、どうだったかな」
「スッキリしたわ。だいぶ。でも全てじゃないから」
「君の心にはもう影も見当たらないけどね」
男は外界の稲光を見つめた
「君が望むなら、あの男を消し炭にもできる。私には造作もないことだ。どうする?どうしてほしい?」
男は女に詰め寄り、そっと。
「それとも、抱きしめてほしい?」
女は静かな瞳で男を見上げた。
「私は泰然自若とした強さがほしい」
男は目を見開き、彼女の瞳から目をそらせずにいた。
「いつでもどっしりとした私でいたい。もう過去の男に振り回されたくないわ。そしてこれからも。誰かを愛するのは素晴らしいことだけど、調和を保つ必要があるのは確か」
男は女の前で微動だにせず、彼女を静かに眺めていた。
「そのために。私は私のやり遂げたいことをやる。今ここで、一生をかけて」
心に決めたその覚悟を見届けて、男が呟く
「君は強くなったね」
男は眼を細めて、女の肩に手を置いた。
「ならば、君の望む通りにしよう。君がそのやり遂げる必要のあることを、安心して進めていけるように」
そして、ふっと、彼女の肩の力が抜けた
「でも、たまには息抜きも必要なことだ。君にはとくにね。ほら、こんなに重たくなっていた」
彼は、その塊を空へ放ち、金色の粒となりて昇華する
「とっても軽くなったわ。ありがとう」
男はふと笑って答える。
「君のためなら、いつでも」
しばらくして、男が口を開いた
「やっぱり消さないか、あの男。私はあれを許すのは耐え難いよ。何より大切な君の心に傷を負わせるなんて」
「私も許すつもりはないけど、もういいのよ」
「よくないさ。せめて、君の心と身体を癒してあげたい」
唐突に抱きしめた男に、女は戸惑う
「ちょっと、私は大丈夫よ。もう、苦しいわ。放して」
「君はさ、けっこうドライだね。それとも照れてるのかな」
「そんなことないわ。あなたがベタベタし過ぎなんじゃない?」
女の切り返しに男は狼狽した。
「そこは、赤面するなり、慌てるなりするところだよ」
「あなたのおまじないが効いてるのかも」
「いや、君はもとからこうだもんな……」
男の背の影を、女はそれに構わず嬉しそうに
これからの行く末に期待に胸を膨らませていた。
彼女の心の灯が、静かに、確かに燃え始めていた証である。