「あのひとに会いたいと思ったことはない?」
風のざわめきと共に現れた女が、驚く千歳の前に降り立った。
「あのひとって……あなたは一体」
「私のことはそうね、まあ……遠い遠い、池の龍とでも。それより、貴方は今、昔一緒だった人に会いたいとは思わない?」
千歳は大きく目を見開き、彼女をじっと見つめている。
「あなたは、知っているの?あのひとのこと」
「ええ。まあね。薄情な男でしょう。貴女を置いていった」
彼女は穏やかな瞳だけは千歳に向けて、彼の者にだいぶ毒づいている。
しかし、千歳は大きく頭を振った。
「いいえ、きっとあのひとにも、事情があってのことだと思っていました。私がここに来るまで見守ってくれていないことは悲しく思うこともあったけど、それでも。あのひとがあの時導いてくれたから、今ここに私がいる」
千歳の瞳はきらきらと星々の如く輝いている。
女は、少しまぶしく思うと同時に、それを愛しく眺めて耳を傾けていた。
「それに、私の傍らに一緒にいてくれて、笑い合ったり、哀しみを分かち合ったり、たくさん言葉を交わしてくれる、私の狭かった世界を彩りをもって広げてくれる、そんなひとが隣にいるおかげで、毎日が尊く想えるのです」
「……彼の判断は間違いではなかったのね」
ふと呟く女は、千歳の髪にさらりと触れて、笑みをこぼした。
「貴女が今幸せならそれでいいの。貴女が愛する者と共にいて、日々を楽しく過ごせているなら。きっと貴女たちの広げる愛は、これからももっともっと拡大していく。そうして貴女と貴女を愛する者は、今より多くの魂を救い、導く光となることでしょう」
暖かい、魂がふたつ、共鳴し合い、女は瞬く間に風に吹かれて宙に浮く。
「貴女たちのこれからに幸多からんことを」
千歳の瞳が一瞬、光に反射して。潤む。
彼女は思い出していた。昔、遠い昔にも。
”君のこれからに幸多からんことを”
もういない、あのひとに言われた言葉が蘇ってきて、
胸の奥が、じんわりと暖かく。
千歳は、袖で目元をおさえながら。ふたたび天高い空を晴れ晴れしい思いで見上げていた。