第三章 ある男龍と昇りゆく龍(其の弐)

「雨月さま。どうかなさいました?」

夏も過ぎ、過ごしやすくなってきた頃。

高くなった空に思いを馳せながら。

「いや。昔のことを思い出していた」

「まあ。昔に想う方でも?」

昔と変わらぬ漆黒の衣を身に纏う男。そしてその隣には、勿忘草の爽やかな色合いのすっきりとした衣の女がひとり。

男を茶化すように静かな笑みをたたえていた。

「ああ、分かっているだろうに。残念ながら、友のことだ。今はなき」

「……彼が姿を消してから、随分経ちましたね」

しんと静まり返ったその場に、ちょうど、少し奥の廊下に通りすがる者がいた。

その両手いっぱいに様々な絵巻や冊子などを抱えている娘。それを、青年が後ろから追いかけながら話しかけている。

彼の手にも、大量の冊子。重ねて、何やら調べものでもするのか、和気あいあいと話し合っている。



「なくなっていない、と」

意気揚々と進む娘を見ながら、男は呟く。

女は、ふと男に視線をやった。どんな言葉を選ぼうか、惑う面持ちで。

「俺はとっくの昔にいないものだと思っていたが、あれは違うようだ。いつまでも待ち続けている」

「彼女の大切な方ですもの。当然のこと。まさかそれを咎めるなんてことはしないでしょう?」

女は鋭く男を見据えた。たとえ夫と言えども、自ら信頼する者が傷つくとあらば容赦しない。

「分かっている。だが、たまに彼女の背中が寂しく見える。隣のお喋り雀がいない時は特にな」

「そのお喋り雀殿が、彼女の心を癒してくれているのでしょう。彼も信頼できるわ」

「お前は昔から、なんでもほいほい信じるからな……俺は雀に煙たがられているぞ」

「まずはあなたさまから信じませんと。何と言っても龍王さまなのですから」


龍王、雨月。遠い昔の、黒い雨が上がった頃。そう名付けられ幾星霜。

「まあ、それもそうか。手を焼く者ほどなんとやらとも言う」

「ええ、そうですとも」


ゆったりと笑い合うふたりの時はいつまでも末永く。

天高く、昇るためには、本当に大切な残るものだけ連れ立って。

そんな秋の空も、夜長へと移り変わりつつあった。