「雨月さま。どうかなさいました?」
夏も過ぎ、過ごしやすくなってきた頃。
高くなった空に思いを馳せながら。
「いや。昔のことを思い出していた」
「まあ。昔に想う方でも?」
昔と変わらぬ漆黒の衣を身に纏う男。そしてその隣には、勿忘草の爽やかな色合いのすっきりとした衣の女がひとり。
男を茶化すように静かな笑みをたたえていた。
「ああ、分かっているだろうに。残念ながら、友のことだ。今はなき」
「……彼が姿を消してから、随分経ちましたね」
しんと静まり返ったその場に、ちょうど、少し奥の廊下に通りすがる者がいた。
その両手いっぱいに様々な絵巻や冊子などを抱えている娘。それを、青年が後ろから追いかけながら話しかけている。
彼の手にも、大量の冊子。重ねて、何やら調べものでもするのか、和気あいあいと話し合っている。
「なくなっていない、と」
意気揚々と進む娘を見ながら、男は呟く。
女は、ふと男に視線をやった。どんな言葉を選ぼうか、惑う面持ちで。
「俺はとっくの昔にいないものだと思っていたが、あれは違うようだ。いつまでも待ち続けている」
「彼女の大切な方ですもの。当然のこと。まさかそれを咎めるなんてことはしないでしょう?」
女は鋭く男を見据えた。たとえ夫と言えども、自ら信頼する者が傷つくとあらば容赦しない。
「分かっている。だが、たまに彼女の背中が寂しく見える。隣のお喋り雀がいない時は特にな」
「そのお喋り雀殿が、彼女の心を癒してくれているのでしょう。彼も信頼できるわ」
「お前は昔から、なんでもほいほい信じるからな……俺は雀に煙たがられているぞ」
「まずはあなたさまから信じませんと。何と言っても龍王さまなのですから」
龍王、雨月。遠い昔の、黒い雨が上がった頃。そう名付けられ幾星霜。
「まあ、それもそうか。手を焼く者ほどなんとやらとも言う」
「ええ、そうですとも」
ゆったりと笑い合うふたりの時はいつまでも末永く。
天高く、昇るためには、本当に大切な残るものだけ連れ立って。
そんな秋の空も、夜長へと移り変わりつつあった。